2025年10月20日
過去のgooブログ復刻シリーズ。
クマの出没に関するニュースが連日世間を騒がせている。
ちょうど10年くらい前になる。当時、住んでいた関内駅の近くの古本屋で「クマにあったらどうするか」という本に出会った。 その時はクマの出没は自分にとって遠い世界の話だったが、冒頭の一文を読んで購入したいと思った。 これは、そのときの素直な感動を綴った日記だ。
アイヌ民族最後の狩人として、生涯を通してクマと向き合い続けた人物に関する本、クマの生態を知ることができるという点で示唆に富んだ一冊だったことを覚えている。 当時あまりお金がなくてこの本自体はメルカリで二束三文で売ってしまった。現代にこそ読み継がれるべき本だと思う。
ということで以下は当時の文章をほぼそのまま掲載。
今回は古本屋で見つけた本について書こうと思う。はじめに断っておくが、まだ読んでいない。
それは「クマにあったらどうするか」というタイトルのもので、アイヌ民族最後の狩人である姉崎等さんがクマについて語る本だ。古本屋で冒頭の一文を読んで、この本を購入しようと決めたのだった。
私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています。なぜクマが師匠かというとクマの足跡を見つけたときにクマを一生懸命追って歩く、そうやって追っていくうちに、山の歩き方やクマの行動などをすべて学んだからなのです。
いきなりものすごい冒頭文だと思った。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。
これは夏目漱石の「こころ」の冒頭文である。 こうして比較すると内容が似ているが、やはり気になるのは「先生」と「師匠」の違いだ。
自分の人生で「先生」や「コーチ」「監督」など人にものを教える立場の人にものを教わったことは何回もあるが、「師匠」と呼ばれる人に教わったことはなかった。 「師匠」は恐らく「先生」や「コーチ」よりも厳しい類の人だと想像している。 師匠と対になる関係は「弟子」だ。そこには複数人を教える「先生」や「コーチ」よりも濃密な関係があることが想像される。何らかの厳しさ、直接的な表現をするなら「しごき」のようなものがあるに違いない。
そんな「師匠」が人間ですらなく、「クマ」なのだからこれはものすごい本に違いない。
長くなったが、このような経緯があって、この本を購入しようと思ったのだった。
さて、本文をぱらぱらみると、語り手である姉崎さんに対して片山さんがインタビューする形式で文章が綴られていた。
目次を読んで第五章「クマにあったらどうするか」にある節「ホパラタは行うか」が気になったので飛ばして読んでみた。「行う」という言葉から、何らかの行為であることは分かるが、「ホパラタ」という語感からとてつもなくバカそうな行為であることが想像された。
片山
ところで、アイヌ民族の伝統的なクマと出会ったときの対し方ということで、たとえば知里真志保がホパラタ(魔を祓う所作)というのを紹介しているんですが、ホというのは「陰部」、パラというのは「広げる」、タというのは「打つ」という意味で、着ているものを広げてそれで陰部の部分をあおるようにして打つ、つまり陰部を露出させてクマを追い払うというようなことが出ているんですが、こういう所作はしたのでしょうか
姉崎
それは聞いたことがないですね
とんでもない行為だった、まさか陰部を露出させるとは。バカどころか変態的な行為だった。
その後の話の内容をざっくりとまとめる。 片山さんはその後も3回程度、「姉崎さんも実はやったことがあるんでしょう?『ホパラタ』を」ということをしつこく問い詰めていた。
どうしても「ホパラタ」を行ったことがあるという事実を聞き出したい、そんな執念のようなものすら感じる。
しかし、姉崎さんは一貫して「ホパラタ」に対して存在自体を否定していた。 「ホパラタ」が実際に存在するかどうかは謎だ。
しかし、姉崎さんにとってクマは「師匠」だ。「師匠」に向かって「ホパラタ」を行う、つまり陰部を露出させるのは、流石にちょっとありえないんじゃないか、というようなことを思ったのだった。