2022年10月22日
それが、ここに流れてる
あたしたちの血。
あたしたちは無法者なの
そういえば無法者という言葉をしばらく聞いてなかったな、英語にするとアウトローだ。
インターネットで意味を調べると、読んで字のごとく。
法や社会秩序を無視する者。乱暴者。
今回読んだ「われら闇より天を見る」は無法者の少女、ダッチェスが主人公。13歳。
この「無法者」というキャッチコピーに惹かれたのか、この本を手に取った。
大多数の人がそうだと思うが、自分は法や社会秩序は無視しないし、乱暴もふるわない。
だからこそ、内容が気になったのだと思う。物語を読むことの意味は、そういう自分ではない何かに触れることにある。
舞台はアメリカはカリフォルニアの海沿いの町、ケープ・ヘイヴン。30年前にひとりの少女が命を落とした事件がいまだに暗い影を落としている。自称"無法者"の少女ダッチェスは、30年前の事件から立ち直れずにいる母親と、幼い弟のロビンと世の中の理不尽に抗いながら、懸命に日々を送っていた。
町の警察署長のウォークは、30年前の事件で親友のヴィンセントが逮捕されるに至った証言を行ったことを未だに悔いている。そんな中、彼らの町に刑期を終えたヴィンセントが帰ってくる。彼の帰還は町の平穏を乱し、新たな悲劇を生んでいくのだった…
この本の読みどころは色々あるのだけど、なんといっても無法者ダッチェスの言動が面白い。
ダッチェス自身はかなり恵まれない境遇にあって、それを冷やかす人間が周りには大勢いる。だけど、自分に同情するようなことはしない。毅然と敵に対して立ち向かう。
ネイトはシャツの襟を立て、瘦せこけた二の腕までそれをまくりあげていた。「おまえんちのお袋、またやらかしたってな」
笑いがいっせいにあがる。
ダッチェスはまっすぐにネイトと向き合った。
ネイトはにらみかえした。 「なんだよ」
彼女はその眼を見すえた。 「あたしは無法者のダッチェス・デイ・ラドリー、おまえは臆病者のネイト・ドーマンだ」
「あほか」
ダッチェスが一歩詰めよると、ネイトののどがごくりと動いた。
「こんどうちの家族のことを口にしたら、首を斬り落とすからな、このチンカス」
とまぁダッチェスの無法者っぷりと言えば終始こんな具合。汚い言葉を使いまくるし、実際的な暴力をふるうこともある。
自分をからかう者には一切の容赦をしない、とことんドラスティックにやり返す。やられた方は完全にひるんでしまう。
そこにスカッとしたものを感じるのである。
この「われら闇より天を見る」はジャンルとしてはミステリにあたる。
実際に英国推理作家協会賞最優秀長篇賞を受賞しているらしい。犯人が謎の殺人が起きて、徐々に真相が明るみとなっていって、というのがメインのプロットだ。とはいえ謎解き自体にカタルシスを感じる瞬間は少ないと思った。
謎の大ドンデン返し!みたいな展開はあまりなく、淡々と事実が明るみになっていく感じだろうか。昔に読んだので記憶が定かではないが、これもこれで宮部みゆきの「火車」みたいに徐々に盛り上がっていく醍醐味がある。
ただ、自分としてはミステリとしての性格よりも人間ドラマとしての話に注目をして読んでいた。
無私の行い、というキーワードが作中に登場して一つのテーマになっている。無私の行いという言葉は初めてみたように思うが、無償の行いなどと近いものがあるだろうか。
無法者のダッチェスが祖父のハルにさんざん悪態をつきながら、徐々に心を許していく場面。
同級生の障害を持つトマス・ノーブルに対して罵りながらも、彼の優しさに心が動かされる場面。王道なのかもしれないが、打算のない思いやりに彼女の心が動かされる場面に胸を打たれる。涙腺に響くシーンも多い。
巻末の書評にある作者のクリス・ウィタカーのエピソードが面白い。
こうして自身に起こっていることすべてを他の誰かに投影することで、ようやく心の安定を取り戻したクリス・ウィタカーは、二十歳の時に、たまたま新聞で株式仲買人が愛車のフェラーリと一緒に写っている記事を読み、自分もそんな夢のような生活がしたいと思ってロンドンの金融街で働き始める。二十四歳の時に、かねてからの念願が叶ってフィナンシャル・トレーダーに昇格するも、二万ドル失ったら取り引きをやめるようにという上司の指示を無視して、初日に二百万ドルの損失を出してしまう。警察に行くか、働いて半額を返済するかを迫られて後者を選択。
この時のストレスを紛らわせるために、ダッチェスの物語を書いていき、最終的に本作が生まれたらしい。