QLITRE DIALY

ブラックメサイアの声を聴きながら

2024年05月06日

久しぶりにディアンジェロのブラックメサイアを聴いていた。

このアルバムがリリースされてもう10年近くになるという事実に驚いている。名盤とされる多くのアルバムがそうであるように、時が経っても古い感じだったり色褪せたりといったことがない。そういえば、昔に運営していたブログでこのアルバムのレビューを書いていたのだった。記事を読んでいると、10年前の懐かしい気持ちがよみがえって来た。俺はこのアルバムを通してドイツのエロい民族衣装「ディアンドル」のことを知ったのだった。少し、しんみりとして泣けてきてしまった。せっかくなので、この日記サイトで復刻させようと思う。

以下、過去のブログの転載

2014年も終わりに近づいているということで、1本くらいは、と思い、今日は音楽についてのブログを書きたい。

音楽を聴く、ということは好きなことのひとつだ。趣味、という言葉は使わないでおきたい。楽器を演奏したりするわけではない。DJをやっているわけではない。ましては作曲もしないし、カラオケにもいかないので歌う機会もあまりない。音楽に対する付き合い方は、聴く、それだけだ。それでも例えば「クラシック音楽のみを大量に聴いている」「ヒップホップシーンにめちゃくちゃ詳しい」、そういう状態であるならば、それは趣味の一つであると言えるかもしれない。趣味とは、これまた一体なんなのかよく分からないが、おそらく、趣味である対象に対して豊富な知識を持っていたり、研究をしていたり、なにかしらの一家言を持っていることが条件であるように思う。しかし、自分はクラシックはほとんど聞かないし、ヒップホップは聴くことは聴くが、一家言は持っていない。なので、自分にとっての音楽を聴くことは一般的にみて趣味とは言えない。それでも音楽は聴く、という行為は生活の一部になっている。

実はいまも音楽を聴いている。いま聴いているのは、ディアンジェロの今月に出したばかりの新譜、「Black Messiah」だ。ちなみに友人の一人はディアンジェロという単語を見るたびに、ドイツのエロい服が思い浮かぶ、と発言をしていたが、それは「ディアンドル」だ。「ディアンドル」と「ディアンジェロ」、とても似ているが前者は民族衣装であり後者はミュージシャンだ。「ディアンドル」に対して、自分はあまりエロチックさを感じないが、いまは「ディアンドル」がセクシーなのかそうではないか、という問題は置いて、「ディアンジェロ」について書きたい。

<ディアンドルを着た女>

ディアンジェロの「Black Messiah」は一昨日の夜から聴きはじめて、2回通して聴いた。今は3回目を聴き始めている。

「Black Messiah」は前作のアルバムから15年の時を経て発表された。

2回通して聴いただけなので、はっきりとしたことは発言できないが、かなり良いアルバムだと思う。今年出たアルバムの中でトップ!という発言をしている人もインターネットでよく見かける。今年出たアルバムの中でトップなのかどうかは、自分は今年に発表されたアルバムをぜんぜん聴いていないからわからない。今年も、もう終わってしまうので、今年に出た中で、という話はもうできなくなってしまうから、色んな人が、まさに駆け込み需要のように、「Black Messiah」を今年のトップアルバムに位置付けているのでは、という疑問も浮かんだこともあるが、それとは関係なしに良い。ではどういう風に良いのか、と聞かれると困ってしまう。例えば、音楽の良さを表す言葉で、革新的、という形容詞を見かけることがある。有名なアルバムだと、恐らくKing crimsonが「クリムゾンキングの宮殿」を発表した時は、革新的、と言われただろうと思う。または比較的に最近だとMy Bloody Valentineの「Loveless」、Radioheadの「KID A」あたりも革新的と騒がれたはずだ。どれも名盤だ。しかし、ディアンジェロの「Black Messiah」は名盤だと思うが、あまり革新的という印象は持たなかった。どこが良いのか、という話に戻ると、トートロジーじみてはいるが、ブラックミュージックの良さをうまく吸収しているというところにあると思う。これこそがディアンジェロ、という印象的なフレーズはあまりない。歌のメロディは影響を受けたと公言しているプリンスに近いものがあると思う。たぶん、うまく吸収しているというところがポイントだ。「山下達郎って人は黒人音楽にコンプレックスを持ち続けてきた人なんです」。そんなセリフをどこかで聞いたことがある。どこで聞いたかは思い出せない。ふと訪れたソウルバーの親父が、酔っ払っていた自分に吹き込んだ話だったかもしれないし、音楽雑誌の記者が書いた話かもしれない。その話は少しわかる気がする。山下達郎がコンプレックスを持っていたことと音楽自体の良さには関係があまりないように思うが。とにかくディアンジェロの曲を聴いていて、「コンプレックス」というものは感じない。グルーヴ、それが何かはまだ自分にはうまく言葉にできないが、ブラックミュージックの持つグルーヴをごく自然に消化して、再生産しているという印象がした。

このディアンジェロの「Black Messiah」はインターネット上で、言及をしている有名人もかなり多い。その中の一人、俳優でありミュージシャンであるジャスティン・ティンバーレイクは配信の初日に「俺と連絡を取りたい奴はごめんよ、いまディアンジェロ聴いているからそっとしておいてくれ」という発言をツイッターで残したらしい。

人は何かに集中しているとき、他の行為というものができなくなってしまう。それには許される場合と許されない場合がある。もちろんディアンジェロを聴きながらでも、連絡を取ることはできるとは思うので、これはジャスティン・ティンバーレイクのディアンジェロのアルバムが素晴らしいことを言い表した間接表現だ。ディアンジェロの新譜だから、そして、ジャスティン・ティンバーレイクという有名人だからこそ、こんな傲慢とも取られかねない発言をしても許される、というのはあると思う。

例えば「俺と連絡を取りたい奴はごめんよ、いまディアンドルを着たドイツ女の画像をあさってるからそっとしておいてくれ」という発言だったら、確かに「ディアンドル」を着たドイツ女の画像をあさっている最中には連絡をしている暇なんてなさそうだが、ここには許されない何かが存在している。

そもそも連絡を取れないとか関係なしに、女の画像をあさっている、というのが駄目だ。

とはいえ、たとえディアンジェロを聴いているとしても、すべての行為が許されるわけではない。

「ディアンジェロを聴いているから風呂に入らない」、ディアンジェロを聴きながら風呂に入ることはできないが、これはおそらく許されない。「ディアンジェロを聴いていたから会社に遅刻した」、こんな奴は減給処分になるだろう。ディアンジェロを聴いているときに何が許されて何が許されないのだろうか。発言する人物の格、というものも関係している。ジャスティン・ティンバーレイクほどの人物なら、連絡を取らないことも許容されそうだが、一般人の自分が言ったらそれこそ傲慢な勘違い野郎扱いをされる。自分はディアンジェロを聴きながらいろいろなことをしないといけない。ここには悲しさが存在している。途中、ブログを書きつつ、ディアンジェロを聴きながら、ディアンドルを着たドイツ女の画像をインターネットであさってしまっていた。