QLITRE DIALY

打ちっぱなし、そこはぞんざいなる場所

2022年08月07日

この週末はゴルフの打ちっぱなしに行ってきた。

今まで触れたことはなかったのだけど、自分はゴルフをやっている。

ベストスコアは110。ちゃんと計算はしていないが、平均は120くらいだろうか。

客観的に言って、一緒にラウンドをしていて大きな迷惑はかけないけれど、下手だよ、という感じのスコアだろう。

そこまで熱心ではないけれど、やはり「うまくなりたい」という気持ちはあるもので、週末はちょこちょこ打ちっぱなしに練習に行っている。が、どうも「向上している」と言う感覚がつかめないでいる。

これはどうも「打ちっぱなし」という場所での練習が「ぞんざい」になりがちなのが原因なんじゃないかと思うわけだ。

「ぞんざい」について考えたのは、最近読んだ宮沢章夫の彼岸からの言葉ぞんざいの思想という章に次のようなことが書いてあったからだ。

「ぞんざいな言葉」は、素知らぬ表情でそっと私たちの会話に侵入する。

 だから厄介なのだ。私たちは無自覚に、次のような言葉を平気な顔で使う。場所柄もわきまえず、話す相手のことも考えず、無神経に発するのだ。

「ラッパ飲み」

 なんという「ぞんざい」な響きを持った言葉であることか。言葉として「ラッパ飲み」が喚起するイメージ —— ラッパを吹くように壜をこころもち上にしてぞんざいに飲む姿 —— もそうだが、問題は言葉そのものの響きだ。「ぞんざい」の中心をなすのは「パ」である。「ラッ」で飲みこんだ音を「パ」と無作法に吐き出す。挙句の果てに「飲み」と言い切るのだ。

その後も似た音系の「あっぱれ」、「ごりっぱ」、「鉄板焼き」なども「ぞんざい」であるとし、「ばびぶべぼ」が含まれる言葉も「ぞんざい」であると指摘している。

ちなみに「ぞんざい」についてGoogleで調べると以下のような記述がヒットする。

ぞんざい

取扱い等が丁寧でなく、なげやりで乱暴なこと。

さて、話を「打ちっぱなし」に戻そう。この言葉は宮沢章夫が指摘した「ぞんざい」な響きを含んでいるように思える。

「ラッパ飲み」、「鉄板焼き」と同様に「ぱ」が使われているし、「打つ」という行為に加えて、「打ちっぱなし」はその上、「っぱなし」つまり「放し」ているのだ。これはかなり投げやりで乱暴な印象を与えるのである。

ゴルフは小さなカップにいかに少ない打数でボール沈めるか、ということを競うスポーツだ。

カップの直径は108ミリメートル。

「直径108ミリメートル」、「少ない打数」というところに繊細さ、「ぞんざい」とは真逆の思想が根底にあるように思えるのだ。

しかし、我々は「打ちっぱなし」では、ゴルフのルールのことなど忘れて、ついつい「ぞんざい」に練習をしてしまう。

例えば「打ちっぱなし」で代表的とされる練習として、以下のようなものがある。

「ドライバーでとにかくかっ飛ばす」

「かっ飛ばす」という行為は相当「ぞんざい」でどうかと思うのだが、「打ちっぱなし」にいるときはその行為の「ぞんざい」さについて考えることはない。

なぜなら「打ちっぱなし」という言葉の持つイメージ、その場所にいることが我々を「ぞんざい」の方へと駆り立てるからだ。

その他にも「ぞんざい」になってしまう場面が多い。

  • うまく打てたけど、それを再現するにはどうすればいいか、ということは考えずに次の球を打つ。
  • 失敗をしたとしても、反省はしない、あろうことか、まぁ本番じゃないしな、オーライ、オーライ、などと開き直る。
  • 汗をぬぐいながら、とりあえず「打ちっぱなし」に来たことだけで、満足をしてしまう。

中にはしっかりと考えて練習をしている者もいるだろうが、自分を含め大多数の「打ちっぱなし」にいる人間はこのように「ぞんざい」の負の連鎖、「ぞんざい」の罠ともいうべきものにはまっている。

基本的に打ちっぱなしでは1球あたりで単価を設けているところが多いのだが、次のような料金体系の打ちっぱなしもある。

「一時間半打ち放題1,500円」

いくらドライバーでかっ飛ばしても、ぶっ放しても、時間内であれば同じ料金だ。

「打ち放題」は言うまでもなく「ぞんざい」だが、魅力的だと感じてしまう自分がいる。

これでは向上しないのも当然だと思う。「ぞんざい」からまずは脱却をしないといけない。